感覚の解像度を上げて生きていきたいと思った話
1人の世界に入って好きなことをひたすら追求してくのが昔から好きだった。
小さい頃の記憶はあんまりないんだけど。姉が3人いる家庭で男1人だけだったから、多分同じような遊びで楽しむのが難しくてこうなっていったんだと思う。
最近はこっそりとインスタの旅アカを作って旅行先で撮った写真を好きに加工して載せてる。フォロワー数とかいいね数はあんま意識したことなくて、ただ単に自分の好きな世界観を表現する行為が好きなのかもしれない。
自己満以外の何物でもなくて、でもそれで良い。ひとり遊びみたいなもんだから。
そういえば、あまりないはずの小さい頃の記憶の中でも唯一今でも強烈に残ってる感情がある。
お前の理解なんて求めてないよ
って気持ち。わかるかな。
年上の兄弟を持つ人なら学校で避けては通れない「比較」
ともすれば家の中でも親から食らったことある人は多いかもしれない。「お兄ちゃん・お姉ちゃんは〇〇だったのに(なぜお前はそうでない)」という言葉を浴びずに育ってきた人は少ないんじゃないかな。
家族と言えど他人じゃんね。血のつながりが無い人と比べたら共通点は多いかもしれないけど必ずしも性格や身体能力、才能が似てくるわけではない。それなのになんで「似てること」を前提に俺のこと見てるの?小さい時はこれが不思議で仕方なかった。
これは必ずしも悲しい出来事ではない。 むしろ今、自分は当時の環境に感謝している。
この環境のおかげで自分にとって大事じゃない人が誰なのか明確になった。仮にそういう大人の数が多かったとしても彼らの顔色を伺って生きるような瞬間は人生でほとんど無かったし、無駄に周囲に理解を求めて自分を疲弊させてしまうようなことも無かった。
人はそれぞれ違う感性を持っていて、お互いわかりあえる奴もいればわかりあえばい奴もいる
という至極当たり前のことを小さいころから理解できたのは大きい。高校くらいから徐々に生きやすくなった感じはする。
なんでいきなりこの話を書こうかと思ったかというと、昨日たまたま見た記事の内容でハッさせられたから。
たとえば、あるアメリカ出身の男性は「ジャスティス(justice)」、つまり「正義」ばかり言うんです。授業で「昔、ローマ帝国の時代にこういうことがあって、スペインは抵抗できずに……」とあると「なぜ抵抗しない?ジャスティスじゃない」と。「ローマ帝国はすごく大きな力を持っていたから、抵抗できないでしょ」と言うと、「おかしい、そこは抵抗すべきだ」という具合です。彼は自分を基準に考えがちで、ものごとを相対化するのが苦手なのかもしれないな、と感じました。
それで気づいたんです。私たちが生きている社会のほとんどのことは、ローカルルールでできている。狭い社会で培われたクセがあるだけなんだと。こんなに違っても、みんなそれぞれ生きていける。じゃあその最大公約数を探すと、人間の基本はとてもシンプルだとわかります。それが何かというと、おいしいご飯を食べて、恋をして、大切な家族や仲間と楽しく過ごすこと。いろんな国の仲間と接したからこそそれがわかったし、わかったことが嬉しかったです。
今の自分をちょっと遠いところから見た時。何かしらのローカルルールの中で生きてるのはそうなんだけど、そのルールの中で本当に自分を感覚・感情・能力を解放できているのかよく考えた方が良いかもしれないと思った。
その人固有の感覚は本来1人1人に備わっているはず。自分の感覚に無頓着で耳を傾けずにいると感覚は錆びつきいずれ死ぬかもしれない。自分固有の感覚が死んだらもはや自分が自分である意味ってなんだろう?そんな人生意味あるんだろうかと思ってしまう。
というわけで、今後は感覚の解像度を上げて自分に正直に生きていこうと思ったわけでした。