脱ぶら下がり奮闘記

ゆるふわな感じで日々の出来事や考え事を書き連ねるブログです。

決断についてあれこれ

物事をなかなか決断できない友人と割となんでも即決しちゃう友人がいたとして、自分の周りには高校・大学の友人が前者に多くて後者は地元の友人に多い。
 
簡単に書いておくと僕の地元は東京23区で下から2-3番目に平均年収が低い地区。 「親の収入が子供の学歴に影響を及ぼす」という調査結果が世間を賑わしてかなりの年月が経って、当初は「ふーん」程度にしか思ってなかった話題だけど、 そういう視点で地元を見るとなんだかわからんでもないなという複雑な気持ちになる。
 
どういうことかちゃんと書こう。
 
小中学校時代、周りの友達と遊んでいて誰の家が特別金持ちとか貧乏みたいな感覚はまったくなかった。みんな普通の家に住んでいたし、ここでは誰もが世の中の平均的な暮らしをしていると思っていた。
 
他地区との違いを少し感じたのは高校の時。高校に入って文京区、世田谷区、豊島区出身の人たちと話をしていると、幼少期に結構なお金のかかる習い事をしていたり、有名なホテルで毎年家族の誕生日祝いをしている人がぼちぼちいた。当然地元にもこういう人はいたし、そんなのどの地域でも少数派でしょという意見も出てくるけど、母校がそれなりに難関高校だったことを考えると、恐らくそれなりに高いレベルの教育を受けてきて、そういった環境を提供できる家庭で育ってきていることも推測できる(自分の様に最後の1年だけ憑りつかれたように勉強してまぐれ合格した奴はいなかったw)
 
子供に良質な選択肢を揃えてあげられる家庭に育ち、幼少期から多くの選択肢に触れて何かを「選べる」環境で過ごした人は、選択肢を選ぶ(決断する)ことで自分の可能性を広げられることを知っている。
 
一方、地元の友人と話していると節々に「俺にはこれくらいのことしかできないから」というニュアンスの言葉をよく聞く。元々持っている選択肢の数が少ないと思っているのか、どれを選んでも未来は大きく変わらないと思っているのかは不明だ。ただ、それが故に「悩まず即決できる」という強さを持っている。そして自分にとって最低限何があれば幸せなのかをよくわかっている。
 
本来、決断とは何かを選ぶ代わりに、それ以外のものを捨てることを意味するが、選択肢を広げる決断に慣れている人は「捨てる 」ことに慣れていないように見える。例えば「良い高校に行けば良い大学に行ける可能性が広がり、良い大学に行けば良い会社に入れる可能性が広がる 」と教わってきた人たちは高確率で当てはまる。
 
自分は二兎を追うから二兎を得られたんだ!という経験があったとしても、要素分解していくと選択肢どうしの距離感、程度感、方角が近かった だけかもしれない。努力によって物事を両立したり自身の可能性を広げていくことはとても素晴らしいが、結果として今何を捨てているのかは意識しておきたい(自戒)