この1年コーチングを受けてみて
コーチングを受け始めた理由
2020年1月からコーチングを受け始めた。思考の癖をどうにかしたいという思いがきっかけ。
2012年から続けてる徒然日記があるのでジャーナリングや振り返りの習慣はある方だと思っていたのに、年末に大きな振り返りをするといつも同じような壁にぶつかって止まっていることに気づいていた。知識やスキルの話であればそれらを習得して乗り越えれば済む話かもしれないし、環境要因なら環境ごと変えるのも手段の1つ。
自分の場合そういう次元の話ではなさそうで、思考の癖によって自ら壁を作り出しているという感覚に近かった。思考の癖っていうのは例えばポジティブすぎてリスクを軽視してしまうとか、分析するのに夢中で一歩目が出ないとかそういう類のもの。
様々な思考の癖が複合的に重なることで自分の人格や思考習慣を形成しているとすれば、自分の中の無意識なモノと戦わなければならない。これを独力で倒すのは相当難しいなーと思っていた時、どうやら同じような戦いに挑んでいる友人がいたことを知る。
友人のtweetに書かれた「慣れた自分に戻る」という表現はかなりしっくりきた。思考の癖は必ずしも悪いものではなくて、特定の思考パターンで恩恵を受けてきた経験蓄積があるから習慣化したものだともいえる。
すぐ友人に連絡してサービスを紹介してもらった。
いざセッションを受けてみて
当初なんとかしたいと思っていた思考の癖は早々に(1か月~1か月半くらい)矯正できた。30年ちょい生きてきて習慣化された癖がこんな簡単に矯正できるとは。かなり感動したのを覚えている。
自分は月1回のセッション頻度だったので、そこからは次の課題を設定するためのセッションだったり、その時々で課題意識を持ったテーマについて扱ってきた。今は次なる思考の癖に戦いを挑んでいる最中で、これは来年の大きなテーマになりそう。
ZaPASSのコーチングセッションは(というより世のコーチングセッションは)そこそこ良い値段するので金額ネックで一歩踏み出せない人もいそうに思える。投資対効果をどう捉えるかは人それぞれだけど、自分の場合は先にも書いた「30年ちょい生きてきて習慣化された思考の癖」を簡単に対処することができたので、この時点でこの先1年間コーチングを受け続けたとしても投資対効果に見合うと判断した。1月に始めて2月中にそう思えたのはすごい。
思考の癖
先天的なもの、親からの受けた教育、幼少期の経験、自身の強烈な成功・失敗体験などなどが影響していると思われる。タイムマシンで過去に戻って自分に何かしてやることはできないし、この癖によって恩恵を受けている部分もかなりあることを理解すれば「こんな考え方しかできない自分はだめだ」と思うより「思考の癖とどう付き合っていくか」に目を向けたアプローチが良さそう。
コーチングは第三者視点から自分の無意識的な領域に踏み込むことができるのと、対話を通じて気づきが得られるので自分にハマっていたと思う。
コーチとの相性
セッションを良い時間にするために欠かせない要素の1つ。ZaPPSSでは最初に自分がどのような人にセッションを依頼したいか伝えて、お試しセッションもやらせてもらえるので安心してお願いすることができた。他のコーチングサービスも似たような形式になってるのではないか。
自分の場合はフワッとした問い(「その時どう思った?」みたいな)を多用されるのが苦手なので、コーチの方から見た自分を具体的にFBしてもらいつつ、そのFBに対して自分に降ってきた言葉や感情を整理していくうちに深層まで潜っていきたいと伝えた。
フワッとした問いは思考を発散させるには良い。それは理解しているものの、出てくる言葉が自分の中で練られていないので、その言葉を正として次に進むと感情が置き去りにされるような気持になる。行き場のない発散。
それよりも「私から見て、あなたの中でこういうことが起きてるのではないかと思うんですが実際のところどうでしょう?」と言ってもらえた方が「たしかにその側面はありそう」「んー、というよりはこういう感じかも」と繋ぐことができて、自分はこっちの方が相性が良いように思える。
ストレングスファインダーとの出会い
コーチングの振り返りをする上でとても大きな要素。ストレングスファインダーは今年イチの大ヒットだった。
幸いにも既に会社で受けさせてもらっていたので、コーチと一緒にその結果を分析しながら前に進むことができた。ちなみに自分の上位資質はこんな感じ。
- アレンジ
- 学習欲
- 回復志向
- 活発性
- 調和性
- 親密性
- コミュニケーション
- 着想
- 自我
- 共感性
これまで思考の癖と書いてきたものは、後にストレングスファインダーの上位資質であることに気づく。上位資質が良くない使われ方をしている時に同じ壁にぶつかっている感じがしてたんだなーと。自分がなんとかしたいと思っていた上位資質は「回復志向」
「回復志向」上位の人は、物事の本来あるべき姿に対し、足りないところ欠けているところに目を向けます。
それは例えば、仕組みや手順に潜む問題点であったり、人であればその人の出来てないところ、足りないところ、何かを損ねているところだったりします。
この回復志向に助けられたことは何度もある。例えばスポーツをしている時、相手チームの試合をぼーっと見てるだけで色んな欠点に気づくことができたし、営業をしている時は先方の課題感を素早く察知することができた(気がしてます自分ではw)
一方で自分の足りないところばかりが気になって、俺はなんてクソダメ人間なんだと思ってしまうこともあったり、他人のできてない所ばかり目についてしまうこともあったりした。これが先天的な性格だとしたら終わってんな俺とますます自責が続くところを、回復志向の使われ方が良くないと捉えることで解決に向かうことができたように思える。
自分の場合は「輪ゴム療法」に近いことをして克服した。輪ゴム療法は禁煙中にタバコ吸いたくなったら手首にハメた輪ゴムをパチンとはじくことで痛みで制御するというもの。まったく同じことをしたわけではないが、回復志向が暴れだしたら自分で決めていたアクションをすることで1か月経った頃には大分制御できるようになっていた。
来年は上位資質5~10番目の能力を活かすことが目標。この辺の資質たち
- 調和性
- 親密性
- コミュニケーション
- 着想
- 自我
- 共感性
ディズニー映画のインサイド・ヘッドみたいに、自分はストレングスファインダーの資質をそれぞれ「キャラ」みたいに捉えていて、こいつらの良い使い方ができるようになると自分の幅がグッと広がるような気がしている。
最後に
1年間ともに伴奏してくれた宮本コーチとZaPASSに感謝を伝えたい。
宮本さんとのセッションでは自分が勝手に大きくしていた壁の存在に気づけたり、どういうトリガーが発動すると自分の動きが止まるのか理解することができた。それに良い感じに小石を投げてくれる(FBをくれる)ので、何度か打ち返してくうちに潜在的な思考や感情にたどり着くこともできた。宮本さんとの出会いなくして到達できなかった領域だと思います。これから戦いを挑もうとしている壁もそこそこ強そうな気がしているのでまたよろしくお願いします。
コーチングを受け始めた当初、自分の中で「弱み」だと思っていたものが「強い資質の裏側」であることに気づけたのもとても大きい。この発見は希望になった。いつも同じ壁で躓いてしまうなーと思ってる人は是非一度ストレングスファインダーの診断と、その結果をもとにしたコーチングをオススメします。
そうそう、ZaPASSではエゴグラムという性格診断もやっていて社内SlackやTwitterでは結構当たってると評判でした。
自分は人間じゃなかったけども。
おかしいなw
というわけで2021年もまたよろしくお願いします。皆さん良いお年を~
俺とゆとり
これは俺と彼らの物語
俺は放課後、いつも校庭の隅で黙々と自主練してた。部活の全体練習も良いけど自分だけの得意技を磨いたり、下手過ぎて誰にも見られたくない技術を補えるこの時間が結構好きだったりする。
校庭にいる時間だけは長いから大体みんながどんな遊びをしてるのかもよくわかる。それを見て、楽しそうだなーとは思うけど俺には俺の目標があるから自主練に没頭するのみ。
ある日、何歳か下の学年で見慣れない奴が1人で遊んでた。何してるのかここからは見えない。みんながボール遊びとかで楽しんでる中、そいつは校庭の隅で夢中になって何かしている。俺みたいに部活の自主練してる風でもないし、明らかに変な奴だ。
もしかしてクラスでいじめられて友達がいないのかもしれない、とも思ったけど彼の遊びを邪魔するような奴もいない。ただ1人遊びが好きなのかな?ま、そういう奴もいるよね。
そいつと初めて話したのは俺のボールが彼の方に転がっていった時。名札を見て、心の中で勝手に名付けた「1人遊び君」から「1人遊び片石」に変化した。
「ありがと」
ボールを受け取りながら「1人遊び片石」に聞いてみた。
「いつも1人で何してんの?」
「ここで絵描いたり詩書いたりしてる」
「へー、みんなと一緒に遊ばないの?」
「俺はこれが好きだから」
「そっか」
最初の会話はこんな感じ。
思ったよりハキハキ喋るし、少ないやり取りでも言葉に強さというか意思のようなモノを感じた。近くで見ると髪型も変だし、よくわかんないデザインの古着着てるし(そんな俺はずっとジャージだけど)、変わった感性を持った奴であることに変わりなさそう。
運動部の仲間はクラスにこういう奴がいるとバカにしたり、いじったりする。けど俺は片石のこの感じ嫌いじゃない。というかみんながありふれた遊びでワイワイしてる中、校庭の隅で自分だけの世界に浸って1人遊びし続けられるのって結構すごくない?ドッジボールも鬼ごっこも誰かが決めたルールに沿って遊ぶわけだけど、片石は自分の創り出した遊びを楽しんでる。この違いわかるかな。
後日談だけど、片石に言われて俺も自主練という名の「1人遊び」をしてたことに気付く。人を変な奴だと決めつけておきながら自分も同類だったとは。中々自分を客観視するのは難しい。初めて話した日から自主練の休憩がてら話しかけにいくことが増えた。
ある時、遂に「1人遊び片石」に友達ができた。友達の名前は松原。
「ドラゲナイ」と叫んでたミュージシャンと同じような服を着て、普段BUMP聴いてますって雰囲気の大人しそうな奴。ギターケース背負わせたらマジで似合うと思う。演奏できるかは知らんけど。
校内ですれ違った時、松原の名札の色で片石と同じ学年なのはすぐわかった。実は俺から声かけたんだよね。
運動部の怖そうな先輩からいきなり呼び止められたからビビらせてしまったかもしれない。あの時松原に声をかけたのは本当になんとなく。俺の直感で「1人遊び片石」と繋げたら面白いことが起きるかもって思ったのかもしれない。
「校庭の隅でいつも1人遊びしてる片石って奴知ってる?君と同じ学年だと思うんだけど」
多分こんな感じのことを言ったような。
松原は片石と違って自己主張をハッキリするタイプではなかった。でも人に合わせるのが上手いというか、「水」のようにその場に溶け込める不思議な能力を持っている。それに人の心の痛みに敏感で、自分以外の誰かに寄り添ってやれる優しい奴だった。
彼らはすぐ意気投合した。
今っぽいスマホ越しの「いいね」じゃなくて、自分の好きなことを夢中で話して共感してもらえることが彼らにとっては尊い出来事だったのかもしれない。もしかしたら自分の好きなことを誰かに否定されたり、バカにされたことがあるのかな。俺の想像でしかないけど。なんだかそんな気がした。
その日以来、俺は相変わらず自主練に明け暮れながらも、たまに2人のとこへ行って遊びを眺めたりだべったりしてた。その時間が好きだった。
彼らはいつの間にか自分たちと同じような人たちの居場所を作る遊びを企み始めた。
「好きなことを好きというたったそれだけの言葉が僕らには足りない。心が死ぬ前に好きの産声をあげよう。」
とかなんとか言ってたような。
はっきり言って運動部の俺には馴染みのない感覚だった。部活なんて基本的にはその競技が好きな奴が集まるコミュニティだし、どのチームや選手が好きかなんて日常的によく話す。好きなことを好きと言うことに勇気など必要ない場だから、最初のうちは彼らを苦しめてる「何か」の正体がわからなかった。
でも俺が毎日練習してるこの競技を誰かに馬鹿にされたり否定されたら、俺はそいつを嫌いになると思う。もしそいつが1人じゃなくて大勢だったら。つまりマジョリティから否定されることになったらどうなるか。そこまでいけばもう自分の感性を疑ったり、大袈裟に言えば「生き辛さ」を抱えて生きることになるかもしれない。
その生き辛さを振り切って校庭の隅で1人遊びに没頭できるような奴なんて一握りしかいない。多くは自分がマイノリティでないフリをしながら集団に溶け込むことを選ぶだろう。自分が自分であることを辞められないと自覚し群衆に背を向ける生き方も、それを押し殺して集団に迎合する生き方もどちらも苦しそう。なんだか主人公が左ききのあの漫画みたいなテーマになってきたな。ちなみに俺ら3人はあの漫画が結構好きだ。
俺は彼らのお蔭で「好きなことを好きと言う難しさがある」ということを知った。
ある日、状況が一変する。
学校内でも影響力のある先生が彼らの才能に気づいて、2人の感性とそれによって生み出される企みがどれだけ素晴らしいか「オトナ」の目線で解説し始めた。PTAとか、学内新聞を作る委員会もこぞって2人を取り上げて片石と松原は一気に注目を浴びた。
2人はいつかこういう日が来るのを望んでいたとは思う。「このままだと何者にもなれないかもしれない」なんてことをよく言ってたし。今思い返すとあれは自分たちを指して言ってたのか、そんな葛藤を抱える誰かについて言ってたのか。「臆病な秀才の最初のきっかけをプロデュースしたい」的なこともよく言ってたしな。誰かを救うと同時に心の底に刺さった釘の存在に気づいて欲しかったのかもしれない。
そんなこんなで校庭の隅に強烈なスポットライトが浴びせられたわけだけど、部外者の俺にはその時が来るのが早すぎたように思えた。あの時は本人たちもどこか無理してるというか、頑張ってそれっぽく振舞ってるように見えたし、ぎこちないって言えばわかりやすいかな。
気付けば校庭の隅には大勢の人だかりができて、それなりの規模のグループになっていた。部活の全体練習の時に邪魔だって文句言ったら、水泳部がないのを良いことにプールに秘密基地作ったりしてたっけ。
しばらく経った日の夜、片石から連絡が来た。松原が学校に来なくなったらしい。
片石は自分のせいで松原に無理をさせてしまったという自責の念と、こんだけ注目されてしまった以上は一緒にやってこうって腹くくったんじゃねーの?っていう怒りを抱えて俺の前に現れた。元々は一番の理解者だった松原を失って感情はぐちゃぐちゃになってたと思う。
俺からすれば片石も、松原も、2人を取り上げたオトナも、後からグループに加わった人も、誰も悪くない。2人を取り巻く環境の変化は速かったし激しかった。まさか誰からも見向きもされなかった校庭の隅の遊びがこんなことになるとはね。
俺はすぐ松原に連絡したんだけど返事がない。元々傷つきやすいタイプではあったから、気が向いた時にレスくれりゃいーやとのんびり待っていた。たしか10日くらい待った気がする。
松原は片石に対して申し訳ない気持ちもありつつ、オトナたちに注目されてから言動が変わった片石の話をしてくれた。実際のところ俺から見ててもその節はあった。まあ「そんなんよくある話じゃん」って感じだけど。信じてた人の本性が実は想像と違ったんじゃないかって不安はまあわかる。裏切られた気持ちを抱いていたのは松原も同じだった。
俺まで一緒になって片石の悪口で盛り上がっても仕方ないし、とりあえずこれからどうしようかって話に切り替えた。
ところでさ、失って初めて気付く大切さみたいな話よくあるじゃん。あの感情を抱く時ってレアケースだと思ってて、大概は失っても全然いけるわって気付くことのが多いと思うんだよね。健康とか本当に大事な人を除いて。
誰が抜けても組織は回るみたいな話もそうで、結局誰かの代わりを他の誰かが務めて日常は続く。実際はその人が居続けたら辿り着いたであろう未来のことをすっ飛ばして語られるケースが多いけど。これは俺の意見ってより、いわゆる一般論的な話だと思って欲しい。
自分が抜けた後にグループの拡大が加速すると惨めな気持ちになるよな。自分がいたはずの場所に誰かが座ってて、自分に向けられるはずだった拍手の音にボコボコにされてる感じ。けど抜けること選んだのは自分っていう。その事実がやるせなくさせる。
相手を応援したい気持ちと、足を引っ張ってやりたい気持ちと、自ら手を下さないけど失敗を願う気持ちと、色んな感情が渦巻いてたんじゃないかな。でもさ、簡単に手放せない感情ならそれは「失っても全然いける」存在じゃなかったってことだと思うよ、お互いにね。
同じ学校で同学年だし、あれだけ意気投合してたのであれば、きっと時間の問題で彼らは出会っていたと思う。俺が彼らを引き合わせたなどと思ったことは一度もない。でも出会うタイミングを早めたかもって思いはずっとあった。それが良かったのかどうかはわからない。
かと言ってまた3人で笑える日が来たら~みたいな能天気なことを言うつもりもない。
ここは俺のドライな部分でもあるんだけど、変わり続けるのが人間だから一度交わった点を線として継続させる必要はないし、自分であることを辞められないと周りに背を向けた君たちに予定調和なハッピーエンドを期待する方が無理な気がする。心が死ぬ前に嫌なものは嫌って言うのが君たちの「らしさ」だしな。
こうしてこの話の前半は片石と松原の決裂で幕を閉じる。
後半はまだない。
俺に未来を予測する力があるなら不要不急なんてワードが飛び交わなくなる日を当てられる。未来のことはわからないし、そんなのは石井ゆかりの占いだけにしてくれ。お、そういえば今日の星読みにはこんなこと書いてあった。
「お互いに歩み寄る」ことのできる日です。どちらから仕掛けるかをうかがってから動く、といったまなざしは、今は必要ないようです。近づくことが必要だと思ったら、自分から動いてみると、ほぼ同時に相手も動き出しているようです。
これは俺の占いなのか、俺らの占いなのか。この話を書くの知ってるかのような結果だな。この程度の的中率はいつものこと。今更驚くことはない。
さっき未来のことはわからないって言ったけど、2つだけ言えることがあった。次3人で集まる日が来るとしたら、場所は池尻にある中華料理屋で、松原はいつも通り遅刻してくるってこと。しばらくは不要だし不急なんでやらないけどな。
集まっても何も起きないかもしれない。それはどっちでも良いや。でも後半がはじまったら、はじまった時わかる気がする。この言い回しは左ききのあの漫画のパクリだった。好きなワードなもんで使いたくなってしまう。
もしはじまっても、次は皆に気づかれないようにまたイチから校庭の隅ではじめようぜ。俺とお前たちの物語だから。
新しい旅に出ます
入社のきっかけ
当時のサポーターズ
大切なことは人事の皆さんから教わった
これからの自分
学生時代から2人を知っている身としては起業の話を聞いた時から自分にできることがあれば何でも協力したいと思っていたし、当時なりに色々関わらせてもらってすごく楽しかったです。
投資から学べるもの多い、的な話を会社の朝礼でしました
僕のいる会社では毎日朝礼をしていて、月曜の朝は社長か、取締役である僕ゆるく何か喋る、みたいなコンテンツがあります。
今週は自分の番だったので表題の話をしてみました。話した内容に肉付けして会社の日報に書いたのでついでにブログにも残しておきます。
投資に興味を持ったきっかけ
15-6歳の時だったかな。当時、野村證券のサイトでバーチャル株取引ができました(今はもうないはず?)
架空の100万円を半年でどれだけ増やせるかっていうゲームですが、株の値動きは実際のものを使用していたと記憶しています。
同じクラスのバスケ部、美術部、剣道部、テニス部、軽音部の奴ら5-6人で誰が一番設けられるか勝負し始めたのがきっかけです。この遊びも確か、マガジンで1話読み切りの漫画に株取引をテーマにしたものがあって、それを読んだ自分がみんなを誘ったという記憶。なんか面白そうじゃない?って。
お、これこれ!懐かしいなーw
いつも「ロレックスさん」という方がぶっちぎりの1位で、100万の資産を半年で4-6億にするという常人離れした運用をされてました。
ちなみに高校時代の僕らはみんな成績トントンでどんぐりの背比べ状態。「12月にキングダムハーツ2出るからスクエニ株上がるんじゃね?」みたいなノリで取引してました(この時はスクエニの株価上がらずw許すまじ!)
遊び感覚ではありましたが、投資を通じて世の中の動きに興味を持ったり、経済の仕組を勉強したりするのはとても良いことだったと思います。
今年に入ってから
過去読んだ本を読み返したり、少額から新しい投資を始めてみたり色々やってます。まあそれは良いとして、最近読み直した金持ち父さんの投資ガイド入門編に「ヴィークル」という言葉の説明があって朝礼ではここの話をしました。
投資の対象となる商品が、乗り物、あるいは目的を達成するための手段を意味するヴィークルという言葉を使って、『投資手段(ヴィークル)』と呼ばれる。世の中にたくさんの異なる投資商品や投資手法があるのは、たくさんの違ったニーズを持った、たくさんの違った人がいるからだ。(独身の人に、大型ステーションワゴンのニーズはない)。(p.92)
投資商品あるいは投資手法は、きみを今の経済状態から、将来きみがなりたいと思っている状態まで運んで切れる。投資は旅行の計画に似ている。ハワイからNYまで、最初は船か飛行機が、NYについてからはタクシーでも歩きでも、自転車でもいい。(p.92)
ヴィークル=乗り物、つまり自分を目的地に送り届けてくれるもの。自分がどこに、どれくらい時間をかけて辿り着きたいのかといったプランが無ければ適切な乗り物を選ぶことはできません。「金持ち父さん」では投資において何よりもプランが大事だ、という話が最初に繰り返し書かれています。
日常生活と絡めて考えてみる
「投資」というのは何もお金に関することだけでなく、何かしら時間や労力をかけてその対価を得る行為すべてに通ずる言葉だと思っています。例えば健康を意識してる人は「食事」「運動」が投資になるだろうし。
実際にお金をかける「投資」はマジでその人の性格でるなーと思いますが、日常における時間の「投資」も同じで僕の場合は読書や筋トレといった「やればほぼ100%自分に返ってくる」投資を好みます。その代わりやり続けないと蓄積されない、みたいな。ローリスクローリターンでも継続がモノを言う積上げ系の投資が好きなんだなって思います。
それと人間関係。個人的にはこれが超大事。
最近マーケティングチームを立ち上げるに当たってTwitterで知らない人にDM飛ばして会いに行くなど、自分よりその分野において知見がある方に色々話を聞きに行ったりしてます。自分にないものを持ってる人と沢山会うことでポジティブな刺激を受けられるし、毎週宇佐美さん、タケさんとやってる朝食会などもまさにそうで、良いエネルギーを持ってる方と共に時間を過ごすことの重要性を実感しています。
逆に他責思考な人や、会社・仕事・友人など身の回りのことに対して愚痴を言う人とは関係を切る、もしくは遠ざけるなど心がけるようにもなりました。
自分のヴィークルには何を載せてるか意識してみる
食べ物とか着るものとか意識しだしたらキリがないと思いますが、大概は「過去自分が決めたことによって今の自分が作られている」ので、未来をより良くしていこうと思うと今自分がどんな意思決定をするかが大事なってくるのかなと思ったりします。
今の自分が意識できているのは、本を読む時間を取ること、運動すること、深い・広い知識やエネルギーある人と会うこと、くらいかもしれません。でも己のヴィークルのキャパに見合う範囲で様々なことを意思決定していけたら良いなと思いますし、そういうことを意識して過ごすことでも何だか人生が変わってくるような気もします。
まずは自分が意識できる範囲で意識してみることから始まるので、今日もそんな感じでゆるくランニングしてこようと思います。
感覚の解像度を上げて生きていきたいと思った話
1人の世界に入って好きなことをひたすら追求してくのが昔から好きだった。
小さい頃の記憶はあんまりないんだけど。姉が3人いる家庭で男1人だけだったから、多分同じような遊びで楽しむのが難しくてこうなっていったんだと思う。
最近はこっそりとインスタの旅アカを作って旅行先で撮った写真を好きに加工して載せてる。フォロワー数とかいいね数はあんま意識したことなくて、ただ単に自分の好きな世界観を表現する行為が好きなのかもしれない。
自己満以外の何物でもなくて、でもそれで良い。ひとり遊びみたいなもんだから。
そういえば、あまりないはずの小さい頃の記憶の中でも唯一今でも強烈に残ってる感情がある。
お前の理解なんて求めてないよ
って気持ち。わかるかな。
年上の兄弟を持つ人なら学校で避けては通れない「比較」
ともすれば家の中でも親から食らったことある人は多いかもしれない。「お兄ちゃん・お姉ちゃんは〇〇だったのに(なぜお前はそうでない)」という言葉を浴びずに育ってきた人は少ないんじゃないかな。
家族と言えど他人じゃんね。血のつながりが無い人と比べたら共通点は多いかもしれないけど必ずしも性格や身体能力、才能が似てくるわけではない。それなのになんで「似てること」を前提に俺のこと見てるの?小さい時はこれが不思議で仕方なかった。
これは必ずしも悲しい出来事ではない。 むしろ今、自分は当時の環境に感謝している。
この環境のおかげで自分にとって大事じゃない人が誰なのか明確になった。仮にそういう大人の数が多かったとしても彼らの顔色を伺って生きるような瞬間は人生でほとんど無かったし、無駄に周囲に理解を求めて自分を疲弊させてしまうようなことも無かった。
人はそれぞれ違う感性を持っていて、お互いわかりあえる奴もいればわかりあえばい奴もいる
という至極当たり前のことを小さいころから理解できたのは大きい。高校くらいから徐々に生きやすくなった感じはする。
なんでいきなりこの話を書こうかと思ったかというと、昨日たまたま見た記事の内容でハッさせられたから。
たとえば、あるアメリカ出身の男性は「ジャスティス(justice)」、つまり「正義」ばかり言うんです。授業で「昔、ローマ帝国の時代にこういうことがあって、スペインは抵抗できずに……」とあると「なぜ抵抗しない?ジャスティスじゃない」と。「ローマ帝国はすごく大きな力を持っていたから、抵抗できないでしょ」と言うと、「おかしい、そこは抵抗すべきだ」という具合です。彼は自分を基準に考えがちで、ものごとを相対化するのが苦手なのかもしれないな、と感じました。
それで気づいたんです。私たちが生きている社会のほとんどのことは、ローカルルールでできている。狭い社会で培われたクセがあるだけなんだと。こんなに違っても、みんなそれぞれ生きていける。じゃあその最大公約数を探すと、人間の基本はとてもシンプルだとわかります。それが何かというと、おいしいご飯を食べて、恋をして、大切な家族や仲間と楽しく過ごすこと。いろんな国の仲間と接したからこそそれがわかったし、わかったことが嬉しかったです。
今の自分をちょっと遠いところから見た時。何かしらのローカルルールの中で生きてるのはそうなんだけど、そのルールの中で本当に自分を感覚・感情・能力を解放できているのかよく考えた方が良いかもしれないと思った。
その人固有の感覚は本来1人1人に備わっているはず。自分の感覚に無頓着で耳を傾けずにいると感覚は錆びつきいずれ死ぬかもしれない。自分固有の感覚が死んだらもはや自分が自分である意味ってなんだろう?そんな人生意味あるんだろうかと思ってしまう。
というわけで、今後は感覚の解像度を上げて自分に正直に生きていこうと思ったわけでした。
「帰る場所」と「行く場所」があることを知った8日間の旅
先日、社会人になって初めて長めの休みを頂いて8日間の旅に行ってきました。
行先はアフリカの北西部にあるモロッコ。サハラ砂漠やアトラス山脈といった豊かな自然と個々に強烈な特色を持つ街を抱える、アラブとヨーロッパの文化が融合した独特な空気感が流れる国でした。
青い建物とお洒落な雑貨と猫で溢れる山岳地帯の街~シャウエン~
地図なしで踏み込んだらまず出てこれない巨大迷宮~フェズ~
世界最大の砂漠~サハラ~
アトラス山脈南部の街~ワルザザード~
世界遺産の城砦~アイト・ベン・ハドゥ~
イヴ・サンローランが愛した庭園~マジョレル庭園~
マラケシュのナイトマーケット~ジャマエルフナ広場~
モロッコは古い建物がそのまま残っている街も多く、行く場所それぞれで昔そこにいた人が過ごしてきた歴史と文化を感じることができます。
今回は1つの街にゆっくり滞在することはできませんでしたが、多分朝と夜で別の顔を持つんだろうなーというエリアもあって(寒暖差が激しい砂漠地帯や夜になるとお祭り騒ぎが始まるマラケシュ)同じ場所に旅した人たちでも行った時間によって異なる感想が聞けるかもしれません。
ちなみにネットの情報と一番ギャップを感じたのはマラケシュ。引ったくり・ぼったくりが横行してる治安悪い場所というイメージでしたが、実際売店の売り込みは思ったより控えめだったし、シャウエンやフェズでは間違いなく3倍以上の値段でふっかけられるのに良心的な価格で販売してくれるし(しかも交渉次第でディスカウント可)、商品を買ってくれた観光客に「ちゃんとバッグ閉めとけよ」と盗難防止アドバイスまでしてくれる親切な人がいました。
※そうは言ってもこれは僕が経験した一部でしかないので、今後行かれる方は十分注意してください。
旅行初心者は変なことでキョドる
長期休暇はさることながら、旅行経験すらあまり多くない人生を過ごしてきてしまったので出発の直前までキョドってました。
なぜ旅行経験があまりないかと言うと9歳で野球を始めた時から今年母校のラクロス部のコーチを辞めるまでの21年間、ほとんどまとまった休みを取ったことが無いからです。仮にまとまった休みがあったとしても自主練やバイトに費やしてきたので、旅行に行くという選択肢すら頭にありませんでした。
長い休みを取って日常から離れ、その期間自分にとってまったくの非日常が広がるアフリカ大陸に身を置いて色んな街を巡る。そこで見たもの、感じたことによって今まで自分の中にあった何かが少しでも変わるんじゃないか。
大袈裟かもしれませんがそんなことに期待してしまう自分がいたり、一方で不安になってしまう自分もいたり。何かと影響されやすい自分の性格からして、例えば異国の地で見た光景に魅了されてしまい「俺はここで暮らすんだ!」と思い立って移住を決意してしまうんじゃないかとか、人々の暮らしぶりを見て「俺もこんなライフスタイルが良い!」とか言って帰国後に謎な行動を取るんじゃないかとか、以前グランドキャニオンに行った時のような不思議な閃きが全身を貫いて色んなことにアグレッシブに挑戦できるようになるんじゃないかとか。
旅慣れしてる人からしたら何言ってんだコイツと思われるようなことでも自分にとっては割とでかいイベントなもんで、今振り返ると出国前のキョドリ原因はこの期待と不安の入り混じった感情から来てたんだなと思います。
「帰る場所」と「行く場所」
日本から離れて日常生活とは全然違う行動ばかりしていく中で、自分にとって「帰る場所」があったことに気づかされます。
「場所」とは物理的な空間のことではなく、今まで生きてきて無意識に自分を自分たらしめていた行動、習慣、食べ物、人との繋がりのことを指します。まだボヤっとしか言語化できていませんが「自分の価値観を形成している要素が詰まった生活」をイメージしてもらうと少しだけ伝わるかもしれません。
「帰る場所」があるという気づきと、「帰る場所」を構成している要素。これらは非日常空間に身を置くからこそ際立って見えてくるものだと思います。そして今の自分に足りないものを埋めるためだったり、そこに行けば欲しているものがあるかもしれないという期待を持って向かうところが「行く場所」です。
期待通りの非日常を味わうために行く場所もあれば、どんなインスピレーションが得られるかわからないけど異様にそそられる何かがあって出向く場所もあると思います。自分にとって今回のモロッコは後者でした。モロッコにもう一度「行く」ことはあっても「ここに帰ってきた」と感じることは無いだろうと思っていて、それは居心地が悪いという意味ではなく、あくまで自分にとって今持ち合わせていない何かを埋めるために「行く場所」なんだろうという感覚です。
帰国した今思うことは、自分にとって「帰る場所」が何なのか見えた後でもずっとそこに留まってしまうと今度は変化が少なすぎて退屈になってしまったり、一度見えていたものが見えなくなってしまうかもしれないなーということです。
きっとそうなる前にまたどこかに「行く」気がしますが、その時の自分が何を求めてどこに行くのかは未知なので未来の自分に託すことにします。
「失敗満員御礼」という素敵な言葉を届けたい
高橋歩さんの講演会
大学4年生の時、学内で高橋歩さんの講演会がありました。
高橋歩さんと言えば、世界中を旅しながらその時々に撮影した素敵な写真とハッとさせられる言葉を綴った本で知られている方かと思います。たまたま実家に高橋さんの本があってその内容から大分影響を受けたクチでもあったので、高橋さんが講演会をやると聞いた瞬間すぐに申込んだ記憶があります。
就活中に自己分析で行き詰ってしまった時に沢山のヒントを頂いた本でした。高橋さんの講演会は確か2011年12月。その時の僕は就活も終わって部活も引退した後だったので、親友が立ち上げた東日本大震災の復興支援ボランティアに参加して帰ってきた時くらいだったかと思います。
「日本という島国を出たことがなくて、大学4年まで体育会に所属していた自分はきっとすごく狭い価値観の中で生きているに違いない。だから高橋さんのように世界中を旅しながら自由に生きている方がどんな価値観を持っているのか、いつからそういうライフスタイルをしてみたくなったのか聞いてみたい。」
そんなことを考えながら当日を迎えました。
講演会では高橋さんの生い立ちから、バーを開店した時の話、治験でお金稼いでた時の話、新婚旅行の話、自伝を出されてから今に至るまでの話をとてもテンポよく濃い内容で話して頂きました。ひとつひとつのエピソードがすごく面白くて会場のみんなも笑いながら話を聞いていたのですが、お話の中で一番記憶に残っているのが「失敗満員御礼」という言葉でした。
バーを立ち上げた時も仲間内で『俺たちは頭悪いから沢山失敗するだろうな』 っていう話はあって、まあそん時はみんなでテンション上げて佐川急便で頑張ろうぜとか言ってたんだけどさ。
確かに失敗はするよ。でも思ったんだよね。失敗しまくっても絶対同じ失敗さえ繰り返さなければいつか失敗する方法全部にバツがついて成功する方法しか残らなくなるんじゃないかって。それを俺らは『失敗満員御礼』って呼んでるんだ。
失敗側が「もうねーよ!!」って言ってくるくらい沢山失敗してやれば残された道は成功する方法しかないから、そうなったら俺たちの勝ちだと思うんだよね。
7年前の脳内再生なんで表現の正確性はないかもしれませんが、間違いなくこんな文脈で語られていました。
失敗満員御礼
この言葉は多くの人に勇気を与えるパワーがあると思います。
僕もたまに陥ってしまうのですが、目の前の事を上手くやろうと思い過ぎて、PDCAでいう所の「P」に完全性を求め過ぎてしまい何だかわけわかんなくなるとか、一歩目が踏み出せなくなってしまうことってありますよね。
他にも「D」の初速は速いんだけどその後ちゃんと振り返りをせずに同じ壁にぶつかったままの状態とか、まあ色んなケースがあるかと思いますが、自分が陥りやすい状態を知っておくと乗り越え方もわかってくるので良いよなーと思うわけです。
(最近思ったことを忘れずに書いておくと)自分の場合、最初の「P」はそこそこに、「D」は初速とちゃんとやり切ることを大事に、「C」は短いスパンで沢山やって「A」で磨きをかける。そのうえで次の「P」をより良いものにして、2-3回転くらいさせたタイミングで誰かにバトンタッチする。こんな流れが得意な気がしてきました。特に「D~A」を短い期間で多角的にバババっとやるのが好きだし多分得意です。
失敗満員御礼状態にするには、まず「失敗=だめなこと」ではないという認識が必要でしょう。一発目から完璧なプランニングをすることは離れ業ですから。そこを狙い過ぎないバランス感は重要ですよね。この辺は人によって得意なアプローチが違うと思います。良い計画を作るのが得意な人もいれば、同じことをミス無く繰り返すことが得意な人もいれば、色んな手段があって良いと思います。
大切なのは
失敗側が「もうねーよ!!」って言ってくるくらい沢山失敗してやれば残された道は成功する方法しかない
というテンション!そう、テンションが一番大事。このテンションを忘れて、降りやまない雨は無いのに自分からネガティブスパイラルに陥ってしまって抜け出せなくなってしまうと結構つらい。
まあなので最終結論は精神論っぽいんですけど、事実として「方法論は有限」ということを知っておいた上で「高速で試行錯誤する」アプローチを続けていくと、割と状況を打開できることが多いっていう気付きを得たので書いてみました。
失敗満員御礼、良い言葉だなー。
未来は現在との陸続きであることを忘れないでほしい。
この5か月弱の間で感じたことをダラダラと
4月からサポーターズという会社で取締役をしていいます。
「取締役」という文字が何だか偉そうで社内ではできるだけ「トリシマリヤク」と書くようにしています。「焼肉」と「ヤキニク」だと何か違いませんか?すげーどうでも良いですね。当初は社内の組織関連(評価、文化形成、日々のあれこれ)について良い感じにしてほしいと社長に言われ引き受けました。
肩書が変わる前から思っていたことは「会社自体が成長していないと働く皆にも成長環境は用意できないのでは?」ということ。これは多分そうで環境が人を成長させる的な話あるじゃないですか。だから事業を伸ばして新しい仕事を増やすことで皆にも自分にもチャレンジングな環境を用意しようと思ったんですね。
それで4~6月で注力していたのはインプット。 常に考えていたことは「今僕らが提供しているサービスをどうアップデートしていくことが、未来の世の中にとってより価値のあるものになるのか」というテーマ。
- これからの「働く」はどう変わるのか
- その中で採用はどう変わるのか
- 今後どんな人が労働市場で「価値が高い」とされるのか
- 人口減少社会において「会社」はどんな変化を迫られるのか
などなどといったこを考えたり調べたりしておりました。
結局、僕らは世の中の変化にどう適応していくかというのと、世の中に対して自ら起こせる変化があるとすれば何か?というのを考えていかなければなりません。まだ世の中にない価値を見出そうとしたら、今世の中にあるものに目を向けないと無から有は生み出せないので、毎朝5時に起きては色んなニュースを読んだり、サポーターズの未来について色んな人とディスカッションするなどしました。
組織の中の役割として、現場で金鉱を掘る人もいれば、金を掘る道具を作る人もいるし、穴の外に出て次なる「金鉱」がどこにあるか調査する人も必要ですよね。僕はなるべく穴の外に出て、皆がこれから先も夢中になって仕事ができる「次向かうべき場所」を探し当てようと動いてきた5ヶ月でした。
一方それまでやっていてセールスチームのMGR行については2年近く一緒にやってきたメンバーに引継して「あとよろしく」という感じ。これが結果的に宜しくなかったので今その自戒を込めて書いてます。当時の自分なりに色々考えて引継を行ったし、何かあれば近くにいるし大丈夫だろうと思っていて、ただ色んな箇所に綻びを招くキッカケになってしまったので改善の余地は大いにありだなと思ってます。
5か月前の俺よく聞いてくれ
今からやろうとしてること、考え方は悪くないけど同時進行でやって欲しいことがある。それを今から説明する。
まず君はこれまで特別難しい仕事はしてないはず。でも経験と(もしかしたら周りに共有しきれていない)ノウハウの御蔭で「あの人しかできない」と思われてしまってる仕事ない?
実際そんなものは気のせいで君の仕事は誰にでもできる。だから今までやってた仕事の手順、コツを言語化して、いつまでに、何を、どういう状態にしていたのか、1日の時間の使い方はどうだったのか、何が大変だったのか、どんな工夫をしてきたのか、全部書きだして欲しい。
これがあるだけで後任の人は大分楽になる。実際、人の処理能力はそんなに大きな差はない。ただ、いつまでに何をどうすれば良いのか考えてる時間で脳の体力が削られて、時間も減って慌ててミスに繋がる。これを防ぐために経験やノウハウを全開時して、アップデートされ続ける前提で構わないから「セールスMGRとしてやるべきこと」をまとめた手順書を作って欲しい。
あと今後自分が初めてやる仕事があれば次その道を通る人がいかに楽に歩けるのかを考えて仕事して欲しい。だから日々の活動ログを残しておいてくれ。失敗したことも全面的に公開しよう。他の人が同じ過ちを繰り返さないようにするのが君の役割だと思う。
とまあ、こんな感じでしょうか
実は7月頭にこのことに気づいて以降、後任MGRのサポートだったり新しく入ってくる仲間に向けた研修資料の作成などをひたすらやっていました。その時参考にしたすぐ読めてわかりやすい本を紹介します。
これはマジで良いっす。やはり素人は王道に習わないと。
一番の教訓
またまた5か月前の自分へ。
未来のことを考えるのは楽しいし、なんか経営層としてそれっぽいことをやってる気にはなる。ただ未来は現在と陸続きであることを忘れないでほしい。どんなに理想的な未来を描き語った所でそこまでの道を用意できなければ辿り着くことはできない。道の用意に想定外のことが起きるかもしれないしなんだかんだ手間取ることを考えると、意外と理想からの逆算より「現状の改善」 を高速で繰り返した方が結果的に早く目的地にたどり着くこともある。
未来のことを考えること、非連続な成長に想いを馳せることがダメなわけではなくて、陸続きな未来は現在の延長線上だよってこと。それをわかってもらえたら良いかな。
実際、今皆がやってる業務を効率化するとか、その業務によって生み出される価値を上げるにはどうすれば良いとか、そういう視点を持って行った施策の積み重ねが大事だったりする。
組織の進みは体育祭のムカデ競争みたいなもんで、前だけスピード上げても躓くよ。歩調を合わせてから歩幅も広げて、少しずつ回転をあげていこう。
最後に
同じようなことが他の組織でも起こってないか色々な方の話を聞いてみたいです。もし良かったらお気軽に絡んでくださいmm
ひたすら空撮写真を眺めた日~コミュニティと都市とメディア~
最近いたるところで「コミュニティ」というワードを目にします。コミュニティマネージャーがどうとか、コミュニティ運営のイロハがどうとか。
この単語を見かけない日は無いんじゃないかと思うほどFacebookでもNewsPicksでもTwitterでも流れてくるのですが、実際コミュニティが何なのかよくわかっていない自分がいて、理解を深めるために色々と考えたり調べたりしてみました。
ちなみに僕は最近「起源から掘る」というアプローチにハマっているので今回もそのやり方で検証を試みています(╹◡╹)
まずは仮説を立てる
「コミュニティって何だ?」と考えた時、シンプルに「人の居場所」だと思いました。次に人の居場所の起源は?と考えて「都市」じゃないかなーと思ったので、メソポタミア文明とかその辺から掘ってみようかとも考えたのですが、突然ものすごい気変わりして「いや、歴史ありそうな街の空撮写真を見よう!」と閃いてしまい、自分が思いつく限りもっとも歴史ありそうな街アテネの写真を見ることにしました(その直後に調べたらこんな発見が!世界で最も古い10都市と中東の帝国史)
この時点で「起源から掘れてねーじゃんw」と1人ツッコミ を入れるものの、まあ世界史の知識なんて全然無いし、そもそも仮説なんで外れても良いやってことでやってみました。合っていようが間違っていようが自分なりに仮説を立てることで調べモノが楽しくなるので良いのです(╹◡╹)
実際に見てみた
「アテネ 空撮」でグーグル先生にお願いすると沢山写真が出てきました。その中から今回は写真ACさんからDLできた写真を載せさせて頂いてます。
最初見た時「街の真ん中に大きな丘があるけどこれはなんでだ?住みやすいのか?」と思いました。
僕が今回、この調べものをする前に唯一読んだ世界史関連の本「『民族』で読み解く世界史」から察するに人類は川と平地の近くに住む傾向が強いので、この大きな丘の周りに何故人が住んでいるのかとても不思議に感じました。
自分の持っている知識だけで読み解こうとすると数秒で限界を迎えます。こういう時はまた仮説をタテマショウ(╹◡╹)
ギリシャといえばギリシャ神話、オリンピック、ヨーグルト、エーゲ海、パルテノン神殿が有名ですよね。そういえば高校の時に倫理でソクラテスとか出てきたなーと考えているうちに次の考えが思い浮かびました。
農作物以外の「コンテンツ」を軸に発展した都市なのでは
先程紹介した「『民族』で読み解く世界史」を40pくらい読んだ時、大学受験で1秒も歴史を勉強してこなかった自分は「世界史は環境ゲームとM&Aの繰り返しである」という結論に行きつきました。
「環境ゲーム」というのは、そもそも人類の能力に優劣があったわけではなくて(多少の個体差はあるでしょうけど)その環境下で適者生存するために文明が栄えざるをえなかったのではないか、というものです。個人的にわかりやすいのはエジプト文明における太陽暦で、ナイル川が毎年氾濫する周期を読んで農業に活かすという文明は、水と共に生きる人々の努力によって生まれたものであり、その環境下にいたからこそ誕生したのではないかと考えています。
そうやって各地で発展した文明・都市どうし拡大していく中で戦って吸収されたりなんだりを繰り返していったので「世界史は環境ゲームとM&Aの繰り返し」なんじゃないかという結論に至りました。
話を戻すと、 アテネの空撮写真を見るに「恐らく農作物から発展した都市ではなく、それ以外のコンテンツを軸に発展していった都市なのではないか」と考えるようになったので「人が生きていくために食べ物が必要なので漁業かな?」とか何とか考えているうちにこちらのサイトと出会います。
「 あー、、、貿易と宗教(神殿)と政治かー」とあっさり色んなものが解決してしまったのですが、ここまでの過程が自分にとっては超重要でした(╹◡╹)
都市によっては農作物以外のコンテンツを軸に発展したものもあり、その都市ではどういう順序でどんな建物が建てられていったのか?を掘っていくことで、多様なコミュニティの在り方、価値観を知ることができたからです。
アテネ以外の街も見てみる
空撮写真を見ていると「何でこの都市はこんな形してるんだろう?」と疑問が湧いてきますよね。自分の場合は、まず何でも良いからその都市について知っている知識を無理矢理組み合わせて仮説を立てた後「都市の名前 起源」でググって出てきたサイトを見て回ります。そうやって、その都市は人の居場所としてどのような発展を遂げたのか、沿革を眺めることで多様なコミュニティの在り方を学ぶことができました。
メディアとしての都市
人が情報を運んでいた時代、都市は情報を伝達する媒体(メディア)としての機能も持っていたはずです。これまた気になって調べた所、コミュニティの語源はラテン語でcommune(共有財産、共同体)、communis(共有)からきていると言われており、元の意味は「共同の状態」だそうです。コミュニケーションも同じくここから来ていて「共有のものにする、(感情や思考を)伝達する」という意味だそうです。
コミュニティとコミュニケーションのルーツが同じであることを考えると、都市をメディアと見立てて誰が何を伝えていきたかったのか?考察しながら調べていくのも面白いですね。最近はトルコのように首都が移転された国の沿革を掘ってる最中です。そこにどんなメッセージが隠されているのか、まだ知らないことだらけだからこそ、新たな発見が楽しいです。
ちなみに空撮写真では「ブルーモスク(@イスタンブール)かっこよすぎだろ!」くらいの弱い感想しか出ませんでした(╹◡╹)見てもらうとわかりますけどゲームの世界ですよこれ。是非行ってみたいですね。
http://www.tolgaoner.com/?attachment_id=6 より
最後に
朝?2時くらいに起きてしまって暇だったので3時過ぎから書きはじめ、気づけば朝6時になっておりました(╹◡╹)
最近ずっと考えていことをどっかのタイミングで言語化したかったので、こうして沢山の素敵な写真と共にブログ書けてハッピーです。ど素人がビビりながらフリー素材DLしたり、こんなサイト見て色々やったのですが、もし思いがけず人様にご迷惑をかけるようなことをしていたら教えて頂けますと幸いです。
では(╹◡╹)
天下無双と水
こんなブログを昨日書きました。
datsuburasagari.hatenablog.com
猫の話は大分先にならないとできないので水について書いていきます。水は2018年からしばらく自分のテーマになってくる言葉だと感じています。
「変わり続けることを変えない」
2016年から言葉を変えてようやく辿り着いたシンプルな解。自分は水のようになりたかったんだなーということに気づかされたのは愛読書「バガボンド」を実家で読んでいた時でした。
だいもんさん素敵なまとめありがとうございます。バガボンド愛読者の1人としてここまで簡潔で、でも要所を外すことなくまとめて下さったことに勝手に感謝しています。
あまりネタバレ的なことを書くのは気が引けますが、超ざっくり話すとバガボンドとは宮本武蔵の話で彼は天下無双を目指しひたすら強い人を斬り殺します。ある時、世の中で天下無双と呼ばれる人に会いに行くのですが、その人から「天下無双とはただの言葉だよ」と言われてしまいます。「ただの言葉ってどういう意味だ?」と思い悩みつつ、それでも人を斬りまくる武蔵。そこにある御坊さんが追い打ちをかけます。
「お前の生きる道は これまでもこれから先も 天によって完ぺきに決まっていて それが故に完全に自由だ」
「いやいや、決められてたら不自由極まりないじゃないか」と武蔵。僕もここまでは全く同じことを思いました。ていうか武蔵はイチイチ人から言われたことに振り回され過ぎてて結構かわいい奴なんですよね。
そんな武蔵はある日、流れる川を眺めていて気付きを得ます。
※mkt_33さん、akiruno_lifeさん、素敵なまとめありがとうございます。感銘を受け引用させて頂きます(何かあればすぐに消しますのでお申し付けください)
急な勾配、狭い川幅、速く鋭い流れ
地形によって、外からの力によって、水のありようは完全に決められ
水自身はただそれに従っている
外からの力によって、ありようは完全に決められ
それでも水は水、どこまでも水
完全に自由
川に流れる水をすくって手中にある水を眺める武蔵。水の形は外の力によって完全に決められてしまうが、それが故にどんな形にもなれる。武蔵が探し求めていたヒントはここにあるんじゃないかと思うわけですね。後に彼が1643年から1645年にかけてまとめあげたと言われる「五輪書」には剣術の奥義が記載されており、水之巻という変幻自在を本意とする戦い方が記されています。
天下無双とはただの言葉であり、この世に存在しないもの。なぜなら天下無双を証明したければ自分以外の人間を全て切り倒さなくてはいけないから、そんなことは不可能であり、仮にできたとしてもその時には自分のことを「貴方が天下無双です」と認めてくれる人さえいなくなってしまう。この辺りから武蔵は世の中に存在しないものを目指すことは理(ことわり)が無い、つまる無理な行為であると悟るわけです。
僕に置き換えて言うと、特段何かを目指してやってきたわけではないので彼ほど強いエゴは無いんですが、29年間生きてきて培ってしまった固定概念や「こうあるべき」みたいな考え方はやはり存在するわけです。まあこういうのは誰にでもありますし、その考え方があったからこそ上手くいった場面もあるので一概に悪いものではないと思いますけど。
ただそれがチームの中で常にうまくワークするかと言うとそうではなく、当然別の価値観や考え方を持つ人だっているわけですよね。そうなった時に「変わり続けること」を選択できるかというのは大事になってくる気がしています。
「変わり続ける」というのは360度網羅することではなく、自分の中で絶対に何があっても変えられない価値観とも向き合った上で、それ以外の部分に柔軟性を持たせるというニュアンスです。どう考えても僕は青系の色が好きだしパクチー食べれないし、そういう部分まで含めたら変わりようがないじゃないですか。なので、まずは変えられる部分だけでも水のように柔らかくしていこうという気持ちの表れでした。
水から得た自分のインスピレーションを言語化していく過程で中学生ぶりに方丈記を読んでみたり、色々な人のブログを漁ってみました。一周してバガボンドに戻ってくると、水のように変わり続けるようとすることで人は自分の中の変われるものと変われないものに気づき、自分の不完全性を受け入れた状態で侘び寂びていく。その繰り返しによって「天の下に双つと無いもの」になっていくのではないかなと思いました。つまり天下無双とは、自分が自然体として自分であることであって、心の持ちようで誰もがなれるものなのではないかなーと。
最後は右脳で読んでくださいw
ありがとうございますした^^
水と猫
自分が信じる「より良い道」に向かって自ら変わり続けることを変えない。
これが自分のモットーです。最近は端折って「変わり続けることを変えない」と言ってますが、もともとは2017年のテーマに「常により良い自分になる」を掲げた時から基本的な考え方は一緒です。
その年のテーマを考え出したのは2016年頃からで、きっかけは2015年の年末に行ったLA旅行でした。グランドキャニオンに行く道中が暇過ぎてぼーっと景色を見ながら今までの社会人生活や転職してからの変化などを考えていて、今はどこに向かう旅の途中でこれから先どこに向かうんだろうかと、そんなことをふわふわ考えてバスに揺られた数時間を覚えています。
グランドキャニオンは自分が見てきた景色の中でもっとも「壮大」という言葉が似合う眺めで、何層にも重なった地層がとてつもないオーラを放ち、立っているだけで強烈なメッセージを浴びせかけられた気持ちになりました。
良い時も悪い時も我が身に起きたことを受け入れ、風や水に削られながらその寂びていく経過を隠すことなく、数億年経った今も全力でグランドキャニオンとしての存在を全うする威圧感
と言っても「何言ってんだこいつ」ってなると思いますが、あそこに立つとそういう威圧感と向き合わざるを得ないというか「お前は自分の人生にそれだけ覚悟持って生きてんのか」と語りかけられているようで、倒されそうになるような、ずっとそこにいて地平線を眺めていたいような、不思議な気持ちに駆られました(そもそも地層に感情はないので良い時も悪い時もないんですけど)
自然体でいる強さ、飾らない姿勢のしなやかさ、寂びていく(わびさびの寂びです)過程においても全力で存在証明し続けるエネルギー。一瞬にしてあれだけのメッセージを浴びせかけられると、その場にただ立ちすくむしかできなくて座りながらゆっくり会話したい気持ちになります。
タイトルに書いた「水と猫」とは2018年からしばらく自分のテーマになるであろう言葉です。多分来年には「華」が加わってると思います。すべてにおいて大事なのは自然体であること。自分を偽らないこと。
そんなことをつらつら書いていこうと思っています。
「課題主語」から考える仲間論
こちらの続きです。
datsuburasagari.hatenablog.com
カルチャーとは同調圧力の一種であり、本来は何かしらの課題を乗り越えるために生まれた“空気感”だとすれば、それをアップデートすることで次なる壁を乗り越えていけるのではないか、という話を書きました。思ってることを適当にがーっとブチマケタだけなので今日はもう少しだけ丁寧に書きます。
つい最近までうちの社内では「自分主語」「組織主語」という言葉を耳にする機会が多くありました。「自分主語」とは、言ってしまえば自分を中心とした思想。自分がこうしたいという主張ばかりで、それ自体はとても大切なことなんですが、行き過ぎてしまうと仲間を思いやれていなかったり「それお前が楽しいだけじゃん」という考えになりがち。その対義語チックに使われていたのが「組織主語」「VG主語」という言葉で、要は会社全体のことを考えた時に何が正なのか、という視点です。
個も組織も大事なので結局はバランス論。どちらが一方的に良い悪いではない。とすれば、何か違う言葉はないかなーと思って最近僕が勝手に言いだしたのが「課題主語」という言葉です。うちで言えば様々な事業部(子会社)があるのですが、それぞれが身を置く業界の本質的な課題は何か、 理想状態は何か、理想状態に近づけるために僕らの強みをどう生かしていくのが良いのか。そんなことをひたすら考え、行動していくというのが「課題主語」の言わんとすることです。
当たり前じゃねーかって話なんですけど、本当の意味でユーザーやクライアントを見て仕事してる方ってどれだけいますかね。ちなみにこの考え方は前職でお世話になった2人の先輩から頂きました。当時まだ僕が1年目で先輩たちは27-8歳だった頃だと思います。「内じゃなくて外見て仕事しようぜ」が僕らの合言葉で、今でもその教えがガッツリと染みついています。
ここでいう「課題」とは
・社内ではなく社外にあるもの
・定義された理想状態に対して今不足しているもの
というのが超重要です。
多くの人が陥りやすいのが「不足しているもの=課題」という考え方で、じゃあ水泳選手にとって足遅いことは課題なのかっていうと違うじゃないですか。だから「理想状態が何か」という文脈の中で今足りていないものを明確にして、どういう時間軸でそれらを埋めていくのが良さげなのかを議論していくことが大切なんじゃないかと思うわけです。
そんな感じで同じような課題意識を持つ仲間が集まると、カンパニーが生まれます。
今回ブログのタイトルを「組織論」ではなく「仲間論」にしたのは、カンパニーの語源から考えていくと「組織論」はなんか固いなーと思ったから。そもそも「Society」も明治時代に「仲間連中」なんて訳されてましたからね。こっちのがゆるくて好きだぜ(╹◡╹)
僕が「課題主語」の考え方を推す理由は、ヒトではなくコトを見て話ができるからです。つまり市場における理想状態と現状とのギャップを埋める良い施策を考えて実行した人がスバラシイのであって、よくある「(社内でえらい)誰々さんが言ってるからやろう」みたいな発想から脱することができると考えています。まあその誰々さんの意見がスバラシければ1mmも問題ないです。ただ常に正しいこと言う人なんて世の中にいないんで、本質的な課題に気づいて「こうあるべきじゃね?」って言った人、それに対して実行した人に等しくスポットライトがあたるチームが良いなーと個人的には思ってます。
なんかこのまま書きまくってると「一神教的村社会論」と「コミュニティ論」に突入しそうなんで、今日もまたこの辺りで。
最後まで読んで下さった皆様、ありがとうございましたmm
生存戦略とカルチャー
「ベンチャー界隈では」なのか、会社内のカルチャー(文化)形成に力を入れている企業は多い。かくいう弊社の親会社はその中でも特徴的なカルチャーを有しており、転職してきたばかりの頃は独特の風習に驚かされた場面も多々あった。これは僕だけでなく、転職組と話してるとよくそういう話は聞く。
カルチャーとは何か。今回はカルチャーの正体を自分なりに言語化して、色々思ってることを自由に書いてみようと思う。
さて、いきなり結論を書くと、カルチャーとは同調圧力の一種であり、他にもマナーや“場の空気を読む”などがこれにあたるというのが僕の考えである。
同調圧力(どうちょうあつりょく 英: Peer pressure)とは、地域共同体や職場などある特定のピアグループ(英: Peer group )において意思決定を行う際に、少数意見を有する者に対して暗黙のうちに多数意見に合わせることを強制することを指す。
“空気を読む”については水野敬也さんが過去に著書「LOVE理論」の中で解明しており、空気とは「その場を支配するキーマンの気分」である、と定義した話は結構有名。
同調圧力の様な“空気感”はどこでも発生していて、人は簡単にその空間と周りの人から影響を受けて行動する。その証拠に渋谷のハロウィンでバカ騒ぎして平気でポイ捨てしまくる人でもディズニーランドに行けばそう易々とポイ捨てできまい。つまりそういうことだ。
同調圧力と書いてしまうと何やら悪いものと捉えられがちだが、その場における“空気感”程度のニュアンスで受け取ってもらえれば良い。少なくとも僕はそういう意味でこの言葉を使っている。
僕らはその場(建物など、空間)からも影響を受けるし、そこにいる人たちによっても影響を受けている。この前、とある打ち上げで社内のメンバーと六本木のあるお店に行ったわけだけど、到底あの場で騒いだりアホみたいなことはできないし、それは空間と、いる人の雰囲気でそうさせてるんだなーと思った。
窓から入ってくる光の加減から感じる解放感、部屋全体を流れている風、ピアノの演奏、装飾品の色、部屋全体を包み込むバラの香りなど、少し意識するだけで五感が様々な情報を感じ取ってその場に相応しい振る舞いにさせてくれた。もちろん良い意味でだけど、こういう現象は「空間の圧力を受けている」といって差し支えないと思う。
会社のカルチャーとは、その空間と影響力の強い人たち(多くの場合は昔からいて役職ある人たち)によって形成された同調圧力であり、恐らくは会社が過去何かしら壁を超えたい時に行動指針となるような言葉をクリードやらクレドといった言葉で定義したり、評価制度とセットで社内にその空気感を浸透させていっているところが多いのではないか。
この様に今抱えている課題感や、今後目の前に現われるであろう壁を乗り越えるために、その空間にいる人たちの価値観をアップデートする意味でカルチャーを操ることができるというのは、組織の生存戦略として正しいように思える。度合は異なるけど「仮想敵」を作って民意を操る政策だって似た側面を持っているからね。
大事なのは価値観をどうアップデートしていくか。その当時、最善だと思ってみんなで頑張って作った空気感を新しくするのは、ともすると過去を否定することになるんじゃないか。そういう不安に駆られる人は少なくないと思う。
その辺に対して思うことはまた近々書いてみよう。今日はこの辺で。
集中力3要素のうち「長さ」と「深さ」は鍛えられると思うっていう話
【今日の #左ききのエレン 】
— 「左ききのエレン」宣伝部 (@SAYURI_stART) 2016年11月23日
集中力は「深さ」「長さ」「早さ」のかけ算だと思う
第3巻に登場した集中力理論。あなたの集中力はどのタイプ? pic.twitter.com/7OQvdwpNuo
長さと深さは鍛えることができると思います(「早さ」は残念ながら今の自分にはわからないですゴメンナサイ)
僕の場合、自己評価だとこんな感じでしょうか。
・早さ(普通かそれより遅いくらい)
・長さ(かなり長くいけると思う)
・深さ(そこそこ深くいける)
「長さ」と「深さ」を鍛えるには質問の数がモノをいうと思っていて、僕の場合は大学1年の時に勝手に鍛えられた気がします。
具体的な実体験をもとに振り返ってみます。当時ラクロスというスポーツをやっていて、4月入部の9月からゴールキーパーを始めました。
ラクロスはくっそ固い球が140~150km/hで飛んでくるのですが、ゴールキーパーを始めたばかりの時は身体は動き遅いし、球速くて目で追うのがやっとだし・・・で散々でした。
その時に考えていたことは「いかに球が飛んでくるコースを予測するか」です。身体を速く動かす訓練は恐らく反復がモノを言う世界なので長期的に取り組むことに決めました。球が飛んでくるコースさえわかれば経験が浅い自分でも楽にセーブできると思ったのです。
もともと野球をやっていたので、球を投げる時のリリースポイントと球が飛ぶ軌道についてはある程度理解していました。モノを投げるというのは円運動なので、ざっくり言えば右利きの人が上から球を投げる場合、早くリリースしたら右側・上にボールが飛ぶし、遅くリリースしたら左側・下に飛びます。
ラクロスは野球のスライダーやシュートと違って、人差し指の左側にひっかけたり、中指の右側を滑らせるようなことはできません。基本的にクロス(網)を通った軌道上に球が飛ぶ仕組みになっています。
そのためクロスの軌道が読めればボールが来ない場所が限定されて、シュートコースが読みやすくなります。結論から言えばクロスを持つ下の手の肘を見れば大体予測できるのですが、今はそんな専門的な話はどーでも良くて、この「仮説検証プロセス」に集中力を鍛えるヒントがある、というのが本題になります。
あるテーマに対して複数の側面から質問を浴びせ、実際に行動する前の仮説と、行動後の結果を検証します。何かしらの乖離が生まれた時、なぜ乖離が生まれたのか、原因は何か、もう一回やっても同じ結果か、すぐ改善できるものは何か、など更に様々な質問を自分に浴びせかけることができます。こんなこと考えてたら、勝手に集中力は長く保てるようになるし、物事を深く掘り下げる力もつくと思うんですよね。
僕の場合は探究心が強い性格なので勝手に色んな質問が湧いてきました。なので「長さ」と「深さ」を鍛えるのにそこまで苦労はしていない、というのが正直な話です。ただ、もし別のアプローチがあるとしたら~という点で最近思っていることを続けて書きます(まとまってないですw)
過去、自分が寝食忘れるレベルでハマったことがあれば、その体験を思い出してみてください。
ゲームをしてる時?
何か楽しみなイベントの計画を練ってる時?
どんなことでも良いと思います。寝食忘れてなくても、何かに一番夢中になってた時のことであれば大丈夫です。大体の場合、人が何かにハマる時間はこの4要素のどれか、もしくは複数が含まれているんじゃないかと思うわけです。
・わからなかったことがわかる
・できなかったことができる(成長実感が得られる)
・何かを作っている
・点が線になる(ある事象が別の分野でも起きていることに気づく、みたいなw)
どの要素があると自分はハマりやすいのかわかれば、次はどういう時に嬉しいと感じるのかも考えてみるのも良いと思います。
例えば「料理を作るのが好き」で「誰かに美味しいと言ってもらえると嬉しい」なら、食べる人にとって美味しい料理とは何か?考える時間も集中力は使ってるし、実際に作っている最中も多分色んなこと考えて料理すると思うんですよね。なので必然的に集中力は「長く」なるし、食べた相手のことを考えて色んなこと考えるから「深く」もなる。
自分が嬉しいと感じることと、上の4要素を絡めて何かをすると、きっと好循環が生まれて楽しく集中力が鍛えられると思います^^
ちなみに「悩みやすい」というのは思考体力がある証拠です。集中力の「長さ」があるということですね。悩みを解決できる公式を沢山インプットすれば悩まずに解決できるんで、考えた時間の分、解決策が浮かぶようになるはずです。
これも訓練次第でできるようになるので、またどっかで書きます。
では!
ルフィの弱さと「リーダー2.0論」
「ONE PIECE」という任侠漫画におけるルフィさんの弱さについて学ぶものは多い。
彼は圧倒的な戦闘力を誇り数々の難敵を叩きのめす一方で、それ以外のことがほぼできない。飯作れない、航海術も知らない、医学の知識もない。よーこれで海に出ようと思ったなっていうレベル。つまり個体として戦闘力は強いけど海を航海する者として必要なスキルを身に着けておらず、放っておけば餓死するんじゃないか?と多くの読者に心配されてしまうお方なのです。
1人で日常生活を生き抜くことができない代わりに、戦闘という非日常行為において最高のバリューを発揮するルフィさん。そんな彼は多くの優秀な仲間に支えられて日常生活を送っています。これが今回の本題なんだけど、落合さんの「リーダー2.0」論を聞いた時に真っ先に頭に浮かんだのがルフィさん。
ルフィさんは圧倒的に専門バカ(戦闘力のみ特化)だと思います。もちろん良い意味で。そして自分にできない領域は仲間に助けを求める潔さがあります。これすごい大事。
自分にできること・できないことを正しく認識して、できないことはできる人に頼る。そして「自分にできないことができる人」に惜しみない称賛を送る。文章にすると非常にシンプルだけど実社会において体現できている人を見かける機会は少ないので、自分が体現することはもちろん、貴方にとってリーダーにあたる人に体現させてあげることが重要になってきます。
個人的には「専門バカ」っていう不完全性が認められる社会の方が多様性あって、自分にも他人にも優しい世界だなーと思っています。「完璧な人はいない」と言うと大体の人が「そりゃそうだ」ってなるのに実社会においてリーダーに完全性を求める人が多いのっておかしいじゃない。目指したい人は勝手に目指せば良いんだけど人に求め始めると色々辛くなるのでオススメはできない。
ちなみに僕はラクロスのゴールキーパーに関する領域に関して圧倒的な自信があります。他のことは知りません。
では^^